供養
イオンのお布施目安は?
2010年07月02日 08:37
流通大手のイオンが、自ら手がける葬儀紹介サービスの中で「布施(ふせ)の価格目安」を打ち出したところ、仏教界が「布施に定価はない」と反発している。
というニュースが出てますね。
この話は、今始まったことではなく数十年前から
良く当社にもお客さまより聞かれていることですね。
確かに、お寺さんの顔色を伺いながら
こんなお布施の金額でいいのかな?と恐る恐る出した
経験のある方も多いのではないでしょうか。
もしそんな気持ちがあったとしたら、
その気持ちそのものが、いいことだと思います。
その結果、
「ああもう少しお布施を包めば良かったかな?」
などという心の動きが次の供養の機会につながるのでは
ないでしょうか。
お布施の額が決められるメリットは
すっきり明朗会計でわかりやすいということで
あるとは思いますが、
お葬式の時だけとか、法事の時だけとか、
お寺さんとのお付き合いがそれっきりという感じですよね。
それなら、葬式にお寺さんよりも
もっと感動的な演出ができる人を呼んでも
いいのではとは思いますがいかがでしょうか。
というニュースが出てますね。
この話は、今始まったことではなく数十年前から
良く当社にもお客さまより聞かれていることですね。
確かに、お寺さんの顔色を伺いながら
こんなお布施の金額でいいのかな?と恐る恐る出した
経験のある方も多いのではないでしょうか。
もしそんな気持ちがあったとしたら、
その気持ちそのものが、いいことだと思います。
その結果、
「ああもう少しお布施を包めば良かったかな?」
などという心の動きが次の供養の機会につながるのでは
ないでしょうか。
お布施の額が決められるメリットは
すっきり明朗会計でわかりやすいということで
あるとは思いますが、
お葬式の時だけとか、法事の時だけとか、
お寺さんとのお付き合いがそれっきりという感じですよね。
それなら、葬式にお寺さんよりも
もっと感動的な演出ができる人を呼んでも
いいのではとは思いますがいかがでしょうか。

忌野清志郎さんのお墓
2010年05月03日 11:06
忌野清志郎さんのお墓。

(日刊スポーツ掲載記事より)
生前、清志郎さんのことに関する身近な
ストーリーがお墓のカタチに表現された
とっても良いお墓ですね。
一周忌までの間に十分時間をかけて?
想いを込めて創られたお墓なんでしょうかv( ̄∇ ̄)v
ご遺族の方や、ご友人たち皆さんで
きっと想いを込めて創ったのだろうと
勝手に想像しております。
安らかにお眠りください。
そしてありがとうございます。

(日刊スポーツ掲載記事より)
生前、清志郎さんのことに関する身近な
ストーリーがお墓のカタチに表現された
とっても良いお墓ですね。
一周忌までの間に十分時間をかけて?
想いを込めて創られたお墓なんでしょうかv( ̄∇ ̄)v
ご遺族の方や、ご友人たち皆さんで
きっと想いを込めて創ったのだろうと
勝手に想像しております。
安らかにお眠りください。
そしてありがとうございます。

バリヒンズー教のお墓?
2010年01月28日 07:59
バリ島に視察に行ってきました。
バリは以前、観光で2度ほど行ったことがありましたが、
今回は、お墓がないと聞いていたので、
そのような国(島)がどのように古い文化を
今の世にも伝え生きているのかを知りたくて行ってきました。
バリは本当にバリヒンズー教が人々の心に根ざしている島でした。
お墓のことに関しては、
墓地がない?といわれていましたが、
各村の中心地に必ず義務で墓地と焼き場がありました。
そこには、土葬もあるのですが、
バリヒンズー教では、基本的に焼骨にしないと
その土地のたたり神のようなものになり
今後の親族へ災いを及ぼすそうです。
そして焼骨になったご先祖さまたちは、自然に還したりも
するようですが、分骨して本家の敷地に祀られるようです。
それが本家の継承と、いつまでも変わらないふるさとが
今もなお、存在するようです。

バリのお寺

バリの本家

バリの土葬の仮のお墓(焼骨にする前の仮のお墓)

バリは以前、観光で2度ほど行ったことがありましたが、
今回は、お墓がないと聞いていたので、
そのような国(島)がどのように古い文化を
今の世にも伝え生きているのかを知りたくて行ってきました。
バリは本当にバリヒンズー教が人々の心に根ざしている島でした。
お墓のことに関しては、
墓地がない?といわれていましたが、
各村の中心地に必ず義務で墓地と焼き場がありました。
そこには、土葬もあるのですが、
バリヒンズー教では、基本的に焼骨にしないと
その土地のたたり神のようなものになり
今後の親族へ災いを及ぼすそうです。
そして焼骨になったご先祖さまたちは、自然に還したりも
するようですが、分骨して本家の敷地に祀られるようです。
それが本家の継承と、いつまでも変わらないふるさとが
今もなお、存在するようです。

バリのお寺

バリの本家

バリの土葬の仮のお墓(焼骨にする前の仮のお墓)


タモリさんの弔辞に感銘と感動しました。
2008年08月08日 09:32
あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。
今回のタモリさんの赤塚不二夫さんに対しての弔辞は、
私が、批評とかする権利もなにもないのですが、
世の中にいろんな変化が起こっているのだなと感じました。
一度、タモリさんのテレビ番組にも出させていただいたことが
ありますが、遅い時間までの収録にも関わらず、元気でタモリさんの
パワーを感じさせられました。
今回の弔辞は、抑揚のない言葉を淡々と話す。
通常、スピーチは、話の強弱を付けたりしながら、
感情をしゃべる強さに伝えていくような、
政治家的な話し方が人々の気持ちを引き付けることが多い
ようですが、タモリさんの言葉には、赤塚不二夫さんとの
一つ一つの物語が感じられ淡々としている言葉から
人生の物語が感じられました。
あのような、短い弔辞の中に、赤塚不二夫さんの人となりが
とても感じられるすばらしい話だったと感じました。
以下、ヤフーニュースより引用
◆タモリ弔辞全文◆
弔辞
8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。
われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。
それから長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。
赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしかあがりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。
今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。
私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。
平成20年8月7日、森田一義
今回のタモリさんの赤塚不二夫さんに対しての弔辞は、
私が、批評とかする権利もなにもないのですが、
世の中にいろんな変化が起こっているのだなと感じました。
一度、タモリさんのテレビ番組にも出させていただいたことが
ありますが、遅い時間までの収録にも関わらず、元気でタモリさんの
パワーを感じさせられました。
今回の弔辞は、抑揚のない言葉を淡々と話す。
通常、スピーチは、話の強弱を付けたりしながら、
感情をしゃべる強さに伝えていくような、
政治家的な話し方が人々の気持ちを引き付けることが多い
ようですが、タモリさんの言葉には、赤塚不二夫さんとの
一つ一つの物語が感じられ淡々としている言葉から
人生の物語が感じられました。
あのような、短い弔辞の中に、赤塚不二夫さんの人となりが
とても感じられるすばらしい話だったと感じました。
以下、ヤフーニュースより引用
◆タモリ弔辞全文◆
弔辞
8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。
われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。
それから長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。
赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしかあがりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。
今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。
私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。
平成20年8月7日、森田一義

ペットも「火葬」して「仏壇」へ 「ダイヤモンド」への変身も
2008年04月29日 10:34

お墓は人生の物語です。
2007年08月07日 22:07

感想を掲載させていただきます。
お母さんありがとう。そしてお疲れ様でした。
明るく活発で責任感があり、仕事に遊びにいつも多くの友人たちに
恵まれていた母でした。その母の娘である私の妹が、一年前に病のために
旅立ちました。そのことが私たち親子にとってとてもショックな出来事でした。
それでも一周忌の法要までは、気丈に振舞っていた母でしたが、
その後体調を崩し帰らぬ人となりました。
生前より母は、子供が私たち娘二人ということで、
気を使っていたのか、お墓を建てることには、一言も触れていませんでした。
私もお墓に関しては、建てるべきか少し迷っていましたが、
家族の言葉や両親のことを思い、お墓を建てることにしました。
お墓建立を決めた後、母の乗っていた愛車を片付けていたら、
シートの下からお墓やさんのパンフレットが見つかり、
「ああっ、お墓を建てることにして良かったわ!」
と実感しました。初めて山崎石材さんのショールームにお伺いした時に
お店の雰囲気や、お墓の説明をして下さったスタッフの方の丁寧な対応で、
すぐにここでお墓を建てようと決めました。
お墓のデザイン設計の中で、ベンチには特にこだわったので、
数度の設計変更にも丁寧に対応していただき本当に感謝しております。
お蔭様で、イメージ通りのベンチを配したシンプルデザインの大満足の
お墓が出来上がりました。花の納骨の時に父がベンチに座っている姿を見て
改めて、ほっとしております。本当にありがとうございました。
西井様

手元供養のすすめ
2007年07月29日 09:24

おれが死ぬのか それはたまらん」(蜀山人)
という表紙に書かれた鮮烈な一言!
「お墓」の心配無用手元供養のすすめ
という本が祥伝社新書から出版されました。
著者はNPO手元供養教会会長の山崎譲二さんです。
私もお世話になっている方ですが、日本の伝統文化を大切にしていて、
且つ、モダンなライフスタイルをされているダンディーな方という印象の人物です。
本の内容を拝見させていただくと、今の時代に必要とされる方も
多いのではと思うような必見のないようとなっております。
当店が、墓石屋ということで、手元供養が流行過ぎては困るというのは
実際のところありますが、供養と祈りの専門店としては、やはり手元供養の
情報は常に今後も発信していきたいと思っております。
供養に対する伝統的な考え方と時代にあった情報をバランスよく情報提供
するのが、供養と祈りの専門店「山崎石材」のあり方と思っております。

蓮華の花
2007年07月12日 21:20

カテドラル大聖堂
2007年07月01日 10:32

朝に一人でバルセロナの街を散歩しました。
地図も何も持たずぶらっとだったので、いきなり大きな大聖堂が?
ガウディー作のサクラダファミリア?かなと思いましたが、良く見ると
全く違いました。あとで現地ガイドさんに聞くと、カテドラル大聖堂だそうです。
その中庭の雰囲気が、幻想的で良かったのでご紹介いたします。
西洋にはこのような大聖堂があり、日本にも大寺院や雰囲気のあるお寺があり
宗教を通じて、大切な祈りの空間を守られているんだなあと改めて感じました。
人は自然に、心の平安を求めてこのような歴史的な場のあるところに
いつまでも訪れ続けるんですね。
歴史、後世に残るもの・心・考え方。今まさに日本人が考え次の世代に
残す何かを創り上げていくことが重要な時代なのだろうなあと考えてしまいます。
